3月10日にセブに語学留学に行った。そして、危うく日本にかえれないところだった。無事に帰ってくることはできたが、反省ばかりの結果となってしまった。今後のために、顛末を記録しておこうと思う。
僕がいつ、何に基づいてどんな判断をしたのか?を記録するために、日を追って順に記載することにした。また、その時の状況がわかりやすいように、日本(日)、フィリピン(比)、アメリカ(米)国内の感染者数を記載している。(数字はWHO報告ベース)
状況をなるべく詳細に残すためにかなりの長文(10,000字超え)になってしまったが、主要なポイントは2箇所。3月6日と3月15日に判断ミスをしているので、そこだけ読んでもらえれば僕が何に基づいてどう判断してどう間違ったのかが分かるはずだ。なお、本件記事には「図解」はない。
▼1月29日 親子留学を決めた。
春休み、長男と僕の2人でフィリピン・セブ島へ親子留学をすることに決めた。日程は3月22日(日)〜4月4日(土)の2週間。コロナのことなどまったく意識していなかった。留学エージェント経由で申し込みを完了する。*1
【感染者数 日 7人 比 0人 米 5人】
▼2月1日 日本、武漢からの入国を制限
湖北省に14日以内に滞在した人、湖北省発行のパスポートを持つ人を入国拒否する措置をとる。
【感染者数 日 17人 比 1人 米 7人】
▼2月3日 日本、ダイヤモンド・プリンセス騒動勃発
ダイヤモンド・プリンセス号が横浜市沖に到着、検疫が始まる。船内では7人が体調不良を訴えているらしい。この日以降2週間ぐらい、テレビはダイヤモンド・プリンセスを特集し続ける。
【感染者数 日 20人 比 2人 米 11人】
▼2月13日 日本で初の死者
80代女性がお亡くなりになった。この女性は屋形船での新年会に出席したタクシー運転手のご家族。
【感染者数 日 29人 比 3人 米 14人】
▼2月17日 リモートワークが急速に拡大
IT企業はもちろん、多くの企業でリモートワークへの切り替えが開始される。当初2週間ぐらい行って様子を見る、というもの。感染がじわじわ広がってきているのを感じ始めた。
【感染者数 日 59人 比 3人 米 15人】
▼2月20日 厚生労働省が「今が大切な時期」とアナウンス
この時点ではイベントの開催については一律の自粛要請を行うものではなかった。
【感染者数 日 85人 比 3人 米 15人】
▼2月26日 水曜日 大規模イベントの自粛要請
安倍首相が大規模イベントを自粛するように要請。「ここから2週間が感染のピークを後ろにずらすことができるかどうかの瀬戸際である」と。呼応して、EXILE、Perfumeのイベントが当日中止に。
これまではダイヤモンド・プリンセスが主役だったが、ここからの主役は一般の市民に。
【感染者数 日 164人 比 3人 米 53人】
▼2月27日 木曜日 学校への休校要請
全国の小中学校に対して休校要請がでる。
長男の通う学校も3月2日から休みになった。することもないし、留学を早めてもいいかもしれない。と考え始める。
【感染者数 日 186人 比 3人 米 59人】
▼2月29日 土曜日 安倍首相会見
安倍首相が会見を行う。会見の中で、10日前後で、特別措置法の立法をするとの考えを示す。
特別措置法には非常事態宣言が含まれる見通し。
この頃は中国では新規の増加に歯止めがかかったとして、韓国の患者急増もこの時点ではまだ発生しておらず、世界で一番危ないのは日本だという印象に。もしかすると、日本人がフィリピンに行っても2週間検疫を受けることになるかもしれない。と危惧するようになる。
【感染者数 日 230人 比 3人 米 62人】
▼3月3日 火曜日 日本の緊急事態宣言入りを確信。
特別措置法の成立見通しが13日と伝えられる。緊急事態宣言がされるのを確信する。
宣言をきっかけに米国が日本人の入国を禁止、続いてフィリピンも入国禁止するかもしれない。
なお、この時点でイタリアで感染が爆発し始めており、イタリアの患者数が2,000人を超えた。韓国も4,800人。
【感染者数 日 268人 比 3人 米 64人】
▼3月4日 ドゥテルテ大統領の声明
「日本からの入国を禁止することは考えていない」と明言する。
【感染者数 日284人 比 3人 米 108人】
▼3月6日 金曜日 留学日程の変更!【第1の判断ミス】
日本の感染者数がどんどん増えている!
いずれフィリピンが日本人の入国を禁止するかもしれない。その前にフィリピンに入国してしまうことにする。留学の日程を1週間前倒しにして、3月15日〜4月4日の3週間へ変更。
現地入りは更に早めて3月10日に変更。
入学までの中3日間は、現地の学校をいくつか視察に回ることにする。視察先は今回選んだ留学エージェントが手配してくれた。この留学エージェントは、今回、かなり頑張ってくれた。
だが、これが僕の判断ミスだった。この時点で、留学そのものを冬に大幅延期すべきだった。
【感染者数 日 349人 比 5人 米 148人】
▼3月10日 火曜日 セブ到着!
予定を変更せず、成田空港から飛行機でセブへ。
何事もなくセブに到着。検疫では座っていた席や電話番号など、通常よりも詳しめに記述して提出する必要はあったがそれ以外に特に厳しいということはなかった。
Airbnbでセブシティ・ITパークの中心にあるコンドミニアムを予約していたので、そこにチェックインする。1LDK、プール付きで一泊2,700円。部屋は期待通りの物件で、とてもよかった。リネン、食器等はもちろん、洗面所には除菌用アルコールまで置いてある。これは快適に過ごせそうだ。早速、プールにも入る。
一方、日本では、イタリアの一部、イランの一部からの外国人の入国拒否が始まる。
フィリピンではドゥテルテ大統領が「現時点ではロックダウンは不要。感染者が1,000人を超えるまでは行わない。」と明言する。この時点ではフィリピンの感染者数は30人程度。セブではゼロ。危機感はなかった。
【感染者数 日 514人 比 33人 米 472人】
▼3月11日 水曜日 ショッピングを楽しむ
セブ市内でショッピングを楽しむ。
4週間いるつもりなので、色々と買い込む。
フィリピンでは以前よりアルコール消毒が文化として浸透している。キティちゃんなどのかわいいキャラクターものも売られている。お土産に良さそうなのでいくつか買って帰ることに。しかし、結局、お土産はこのとき買ったのが最後になってしまった。
ショッピングモールの入り口で体温計測などをされたり、タクシーの運転手がみなマスクをしていたり、ということはあったが、それ以外に特別なことはなかった。
この日ぐらいから、株価がありえない下落をする。持っている株の価格が大幅に下がって、気持ちがそっちに持っていかれてしまう。
一方、アメリカで感染爆発。アメリカの感染者数・死亡者数が日本を明らかに上回る。アメリカから日本に帰国する人が増える。
【感染者数 日 568人 比 49人 米 696人】
▼3月12日 木曜日 マニラ封鎖!
語学学校を3校ほど視察する。学校ごとに特色があり、中には気に入ったところもあった。どこもカリキュラムがしっかり作られており、セブの英語留学は想像以上にしっかり勉強できるという印象を持つ。
夜8時頃、速報が入る。ドゥテルテ大統領がマニラを封鎖する、との発表。CNNとネットに張り付けになる。封鎖の主な内容は下記。
- 4月14日まで学校の授業・活動は停止。大規模集会は禁止。
全家庭で厳格な自宅隔離措置。必要不可欠なものを得るため以外の移動は制限される。 - 食糧・医療サービスは継続。
- 検疫措置実行のため警察官・軍人の役割が強化される。
- 行政機関では,警察、軍、医療現場を除いて自宅勤務が実施。
- 民間においては,食糧・医療の製造に関わるような必要不可欠な分野(公共市場,スーパー,食料品店,コンビニ,病院,診療所,薬局,食糧準備配達サービス,補水所,食糧・医療の製造工場,銀行,送金サービス,電力・エネルギー・水,通信)のみ,必要最小限の人員にて営業を継続する。
- 大規模公共交通機関の運営は停止される。陸路・国内船舶・航空便は制限される。
- 一つのエリアから2人の感染者が出るとそのエリアは完全に封鎖される。
- マニラの日本大使館も領事業務を縮小。
たった2日前に「ロックダウンはしない」と言っておきながら、突然の方針転換に大混乱が発生する。特に「2人感染者がいるとその区は封鎖する」というのがインパクトあった。感染者が増えるほど行動範囲が狭まっていく。マインスイーパをリアルでやっているような感じだ。マニラの人は気が気でないだろう。もちろん、「次はセブだ」と噂されるようになる。セブはフィリピン第2の都市なのだ。
なお、このニュースを知ったのは、エージェントでもセブの事情に詳しい友人でもなく、日本の友人から送られてきたメッセンジャー。(その友人の奥さんはマニラに住んでいる。)
情報発信の速度でいえば、一番早いのは現地テレビ。SNSがそれに続き、在フィリピン日本大使館が一番遅い。おそらく、日中はトラブルや来館者の対応に手一杯で、情報発信は夜中や翌日になってしまっていると思われる。
日本語では最新の情報が得られないのは明らかなので、情報収集ルートを全面的に英語に切り替える。
Google Newsの設定を「English(Phillippine)」に変更。SNS、フィリピン政府のサイトを徹底的にクロール。最も速くて正確な情報を獲得するために、奔走することに。
【感染者数 日 620人 比 52人 米 987人】
▼3月13日 金曜日 帰りのフライトを予約【第2の判断ミス】
予定通り、別の語学学校を視察する。
行く予定だった語学学校が突如休講を決める。この時点で、もうセブでは授業を受けられないことが決定した。幸い、授業料はすべて返金されるらしい。
語学学校のスタッフの方と電話で話をした。生徒の中には体調が悪くて入院している人がいるらしい。(地元ではコロナという噂もあったが、この時点で公式の発表としてはセブには感染者はいない。)
留学エージェントも僕が留学できるようにいろいろと手を尽くしてくれたが、結局はセブのTESDAという公的組織から語学学校へ2週間の学校閉鎖をするように通知があったとのこと。したがって、どの学校にも通えないことが確定した。
このままセブにいても仕方がないので帰ることにする。帰国のチケットを取り直す。
マイレージの特典航空券として予約していた関係で、「出発の96時間前」が変更期限になっている。それに従うと、この時点で予約が取れた最短日程は6日後の3月19日(木)だった。随分先だが仕方がない。
しかし、これが最大の判断ミスだった。「仕方がない」ではない。この時点で、マイレージのチケットの変更は後回しにして、有償で別のチケットを取りに行くべきだった。そうすれば15日や16日に帰れただろう。
「武漢ですらANAが飛行機飛ばしてるのだから、止まることはないだろう」とたかを括っていた。判断基準が絶対的に間違っている。
一方、日本では特別措置法が成立したが、非常事態宣言はされなかった。
【感染者数 日 675人 比 52人 米 1,264人】
▼3月14日 土曜日 勉強・勉強・勉強
日本で安倍首相が緊急会見。「ご卒業おめでとうございます」のあの会見だ。感染爆発は起こっておらず、低いレベルに抑えられているが、2週間では収束しなかったこと、そして感染しやすい状況を避ければ外出していいことを丁寧に伝えていたと思う。引き続き注意が必要な状況に変わりはない。
帰国日が19日になったことで、長男は22日の塾のクラス分けテストを受験できることになった。幸い、教材は持ってきていたので、対策勉強を開始する。試験範囲の問題を読み込んで、勉強の計画を立てる。頑張ろう。時間はたくさんある。
【感染者数 日 716人 比 64人 米 1,678人】
▼3月15日 日曜日 お引越し
元々、この日が入校日で、学校の寮に入る予定だったので、コンドミニアムはこの日までしか予約していなかった。
Airbnbで別の部屋を探し、引っ越しをすることに。
新しい部屋は空港から7キロほどのところにした。この先、何が起こるかわからない。7キロの距離ならば、最悪2時間かければ歩いてでも空港に行ける。
海に近いコンドミニアムで、きれいで広いプールもついている。階下には、スーパーマーケット、マクドナルド、スターバックス、セブンイレブンなど、馴染みの商店もたくさん入っている。これなら、落ち着いて帰国までの日を過ごすことができそうだ。
同じくセブに来ている留学生仲間の家族とランチを取る。長男とは一歳違いで世代も近い。実は日本でもものすごく近くに住んでいて、通っている小学校も同じだ。彼らはこちらの学校に進学するので、帰国せずに残るらしい。
セブ・パシフィック航空が日本便を運休する。出る方法が一つ減る。
セブ州知事が、追加措置を発表。
- 3月20日から外国人の検疫を強化。
- 2週間の待機・自己費用での検査を必要とする。
事実上、入国できない状態になる。この時点では出国は可能。むしろ、疑いのある人はどんどん出ていってもらいたいはず。
国内線も、ルソンとミンダナオ島からセブへの飛行機が完全に止まる。国際線についてはタスクフォースの判断に委ねられることに。雲行きがどんどん怪しくなっていく。
なお、この内容について、外務省からメールが来たのは17日15:30だった。
アメリカでは非常事態宣言が発令された(アメリカ時間では3/14)。
【感染者数 日 780人 比 111人 米 1,678人】
▼3月16日 月曜日 日本便が止まる!
朝、マニラー成田の飛行機が無事飛んでいることを確認して少し安心する。
が、ここ突然、フィリピン政府が国境の閉鎖を決定する。
「72時間以内に、マニラから国外への移動(外国人含む)を閉鎖する。」入国を禁止するのは分かるが、出国も禁止する意図が全くわからない。ただし、この時点ではマニラだけ。セブは開いている。
しかし、追い打ちをかけるようにフィリピン航空がセブー日本間定期便の運行停止を発表。国境が開いていても、飛行機が飛ばなければ帰れない。
- セブ⇔成田空港 3月21日〜4月16日まで運休
- セブ⇔関西国際空港 3月20日〜4月16日まで運休
- セブ⇔中部国際空港 3月20日〜4月16日まで運休
自分が予約していたのは中部国際空港行き3月19日発。つまり、1日違いで運休を免れた訳だ。やったー!
しかし、これはあくまで予定。機材の都合などで飛ばない可能性はまだある。特に心配なのが乗員の都合。フィリピン中が封鎖されて乗員が戻ってこれなかったり、乗る予定だった乗員がコロナに感染したりしたら、飛ばない可能性もある。
さらに、まずいのは自分や長男が発熱すること。もしひどい熱になって搭乗拒否されたらシャレにならない。
さらに、コロナに限らず胃腸炎でもなんでも、長男の体調が崩れたとき、すぐに病院にいけるか?というとそんなことないことに気づく。外国人受け入れてくれるか?しかも日本みたいな患者が大量に発生している国から来ている人。まともな扱いをしてくれるわけがない。僕自身はどうなってもいいし我慢もするが、長男の命に何かがあったら取り返しがつかない。
ここから僕の仕事は「長男の体調を崩さないこと」が最優先になる。
飛行機が離陸する予定の3月19日12:00まで、まさに、緊張の72時間が始まった。
といっても、できることは限られている。毎日風呂に入れ、清潔な下着をつけさせ、しっかり食べさせること、室温を適切に調整し、部屋の衛生状態を保つことに、異常に神経を使うようになる。プールが閉鎖になったのは不幸中の幸いだった。
英会話学校が子ども向けに無料のオンライン英語レッスンをやっているので参加させてみることに。セブにいながら、セブに住む先生とオンラインで英語レッスン。ただ、参加したクラスのレベルがやや低かったので、プラスになったかどうかはわからない。
実はこの日の夜、日本の友人たちとオンライン飲み会をする予定だった。気分が落ち込んでいたのもあるし、久しぶりに会話する人たちで、バリで閉じ込められている現状も面白く話せると思って準備万端で待ち構えていたのだが、直前に「オンラインめんどくさいからやっぱり参加しなくていいよ」と言われる。この4本は一人で直ちに飲みきった。
セブで紹介エージェントをやっている知人がいつのまにか日本に帰ってることを知る。びっくりしたが、みんな自分が大事なので仕方ない。(今回の手配を頼んだのはそのエージェントではない)
【感染者数 日 814人 比 140人 米 1,678人】
▼3月17日 火曜日
セブのロックダウン(第1段階)が始まる。
・夜10時〜朝5時まで(市街地は夜8時〜朝5時まで)外出禁止
・人が集まるところでの酒は売らない。
スーパーに行くと当たり前のように売っていた7リットルの水のペットボトルがなくなってる。慌てて売り場に残っていた1.5リットルをたくさん買う。歯磨きもペットボトルの水でやっているので、まさに生命線だ。
コンドミニアムの共用部の施設、プールやジムが使えなくなる。プールがあると長男が入りたがってしまうので、これはよかった。ただ、ナイトプールの写真を撮ってなかったのが残念。
コンドミニアムの下にある商店の営業時間が11時〜20時までに短縮されている。すぐに気づいてよかったが、すべての発表が突然だ。まだ日中は開いているが、この時間がどんどん短縮されて、例えば2時間とか3時間しか開いてないということになると、本当に食うことに困るのではないかと不安になる。
帰国関連は朝から大パニック。とにかく、飛行機に乗れない人が溢れかえっている。マニラでは前日出した72時間以内の出国禁止は取り消されたが、そもそも空港に行く手段は無いままだ。
セブパシフィックが15日からほぼ機能していない。他の航空会社も多くがマニラ経由になるが、セブーマニラ便も飛んでいないので、そもそもセブから出る手段が限られている。
頼みの綱のフィリピン航空だが、電話が繋がらない。全くつながらない。カウンターが人で混み合いすぎていて、後ろで電話が鳴っているが誰も取ってない。という話も。したがって、リコンファームも出来ない。ひたすら不安。
また、この頃から、日本人の入国を拒否、制限する国が増えてくる。セブから台湾やタイなど他国経由で帰るにも入境、トランジットが難しくなっている。更に選択肢が狭まる。
そのうえ、20日〜運休になるということで、便を前倒しする人が大量に発生。セブパシフィックからの振替も含めて、たちどころに全便が売り切れる。
19日の便が予定通り飛ばなかったの保険として20日の成田便を申し込んでいたが、タッチの差で取られてしまう。
「このまま一ヶ月セブで過ごすことになるのかもしれない。」
と思い始める。数日ならまだしも、1ヶ月もこどもの体調を維持することができるだろうか。と、思いつつ、塾のクラス分けテスト対策の勉強は粛々と進める。ただし、無理はさせない。
今回、留学の手配をお願いしたエージェントから、特別に半日だけ体験レッスンを手配したという嬉しい申し出をいただく。ただ、いま、不用意に市内を移動したくないので、丁重にお断りする。いろいろと手厚く対応してくれるエージェントでよかった。
【感染者数 日 829人 比 187人 米 3,503人】
▼3月18日 水曜日 帰国前日
フィリピン航空のページでは、当日と翌日の便の予定を確認することができる。19日の便になにか変更が生じていないか、1時間に1回ぐらい確認する。
長男に食べさせるものに苦慮する。知らないものは積極的に食べない。幸い、コンドミニアムの入っている建物の1階にはマクドナルドと日本料理店がある。スーパーマーケットもあるのでカップラーメンなどは手に入る。マクドナルドはかならず食べるので、食欲がなくなったときの切り札に取って置かなければならない。
前日は近くの地元風レストランでビーフンを食べさせた。スーパーで買ったパスタを作ったが、これは食えなかった。日本料理店のとんこつラーメンはスルスル食べる。なので、今日も昼はとんこつラーメンを食わせる。
正午、オンラインチェックインを完了させる。
15時頃、マニラ市内の外出制限について、詳細が発表される。
日用必需品へのアクセスのため外出できるのは,一家庭につき一名のみ。日用必需品(食料関係・薬局・銀行・送金所)の製造・加工・流通に従事する組織の従業員,警察,軍人,医療・境界管理・緊急事態対応を行う職員,大統領広報部(PCOO)より認可されたメディアは外出可能。チェックポイント通過時は,身分証明書,居住証明書,雇用証明書,隔離域内外への物資配達領収書,(もし可能であれば)政府機関から発行された証明書を常に持参すること。
セブは3月20日から必要最低限の外出だけが許されることに。ますます、ここに残ると大変なことになりそう。明日のフライトが飛んでくれるように祈る。
エレベーターの中に足型が貼られる。
日本では全世界に対して感染症危険情報レベル1が発令される。
いよいよ明日が出発なので、勉強は早めに切り上げて、荷造りを始める。完璧に荷造りをして、簡単に部屋の掃除もする。早くベッドに入るが、まんじりともしない。
【感染者数 日 829人 比 187人 米 3,536人】
▼3月19日 木曜日 帰国日!
午前1時40分。スマホに在フィリピ日本国大使館からメールが来る。内容はマニラの封鎖の強化について。前日の15時に発表されていた内容だが、不安を煽られる。寝れないので、滞在中の記録などまとめはじめる。
マニラでは、公共交通機関はタクシーも含めてすべて停止。飛行機が飛んでいても空港に行けない。セブでもタクシーの配車が減ってる可能性があるので、朝はかなり早い時間に出ることにする。
午前5時30分 長男を叩き起こす。「今日、日本に帰れるかどうかがとても大事だ。とにかく、今日はパパの言うことには絶対に従ってほしい。パパからは絶対に離れないでほしい」と涙目で伝える。が、あんまり伝わってなかったと後で分かる。
午前6時30分 タクシーを呼ぶ。あっさり来る。空港へ向かう。途中の街中はいつもの朝の賑わい。
午前7時00分 マクタン・セブ国際空港到着。チェックインの2時間前についてしまった。当然チェックインはできないので、ロビーで待つ。
午前9時00分 チェックインの行列には先頭で並ぶ。結構長い列が出来ていた。1番でチェックイン。セキュリティエリア内の免税店は半分ぐらいが閉店していた。航空会社のラウンジで少し休憩。長男にはクラス分けテストの勉強をさせる。
正午 離陸。こみ上げてくるものがある。
午後5時00分 定刻より少し早く中部国際空港セントレアに到着。到着した機内で拍手とか起こるかなと思ったけど、別にそういうのはなかった。僕は緊張の糸が切れて涙が出てきたが、長男はそれを不思議そうな顔で見ていた。
入国時の検疫では特に何かを聞かれることもなく、普段と変わらずスムーズに外に出ることが出来た。(後述の通り、自主的に自宅待機をしている。)
【感染者数 日 873人 比 187人 米 7,087人】
▼3月20日 金曜日
最後の成田定期便行きが飛ぶ。
しかし、それらに乗れず、帰国できない人が1,000人単位でいることも分かり、そのことが日本でもニュースになっているほどだった。
そんな中、セブ日本人会の皆さんのご尽力で急遽チャーター便が飛ぶことに。日本人会の方はボランティアで昼夜無く対応されたとのことで頭が下がります。
【感染者数 日 950人 比 217人 米 10,442人】
▼3月21日 土曜日
セブのロックダウンがさらに強化される。
- 学生,及び65歳以上の者は24時間の外出禁止とする。
- 医療手当や緊急の要件の場合は免除とするが,その場合は身分証明書の携行が必須。
- これらの措置は、3月22日午後3時から発効する
実際にはほとんどの店舗、レストランは前倒しして閉店し始めている。
チャーター便が帰ってくる。この後も数便、チャーター便が飛び、帰国希望者を日本に送り届けることになった。
【感染者数 日 996人 比 230人 米 15,219人】
▼3月22日 日曜日 当初の渡航予定日 と、それ以降。
もともとこの日に渡航する予定だったと思うと、この2ヶ月の変動具合に改めて驚く。セブでは外出は禁止。ホテルやレストランもすべて閉鎖。外国人にとってはほぼ暮らしが成り立たない状況になっている。残っていると言っていた家族もどんどん引き上げてきた。チャーター便は3月28日までに何便か飛び、一通りの帰国希望者を救うことはできたようだ。
【感染者数 日 1046人 比 307人 米 15,219人】
まとめ
以上が、僕がセブに行き、そして何もせずに帰ってきた顛末となる。
帰国を決めてから帰国便が飛ぶまでの間、特にマニラ閉鎖以降は本当に帰れるかどうか気が気でならず、何も手につかなかった。
セブの雰囲気を肌で感じたり、複数の語学学校を見学して、現地の学習事情を直接知ることができたのは良かったが、それ以外は成果がなく、ほぼ一週間を何もせずに棒に振ってしまった。その上、もし長男が病気にでもなっていたら一大事になっていた。自分の判断ミスに長男を巻き込んでしまったことに深く反省している。非日常な場所で緊張感の高い数日間を二人きりで送ったことで、長男との絆はこれ以上無く深まったが、それは怪我の功名というもの。狙ってやるべきことではない。
出国前に「日本人が入れるかどうかわからないから早めに行く」という決断をすべきでなかった。入れるかどうかわからないということは、帰ってこれるかどうかもわからない、ということだ。
帰国を決めた後はケチケチせずに最短の日程でチケットを買うべきだった。状況は一日一日悪くなる。そして、一度何かが起こると自分の力ではどうしようもなくなる。常に最悪の最悪を想定して決断をしていかなければならない。そのことを身を以て痛感した。
とにかく反省ばかりだし、僕が無事に帰ってこれたのはいろんな方のサポートがあってのおかげだ。お世話になった方には個別にお礼を申し上げたい。
そして、これ以上迷惑をかけるわけにいかない。僕の帰国時点で、フィリピンからの帰国者に対して、何らかの特別な検疫措置はなかった。その時点でセブでの感染者数も報告は1件だった。しかし、僕自身の軽率な行動でキャリアになっている可能性はある。したがって、長男ともども、自宅で2週間の自己隔離を行っている。
日本でロックダウンが起こったらどうするか?
さて、この記事を公開する3月29日時点において、日本ではいまだ、非常事態宣言は出されていない。
しかし、いつそれが発令されるかはわからない。現に、3月28日の安倍首相の会見では、今後発表する経済対策は非常事態宣言の発令を起こりこんだ内容になっているという。発令は間近と考えていいだろう。
フィリピンで実際にロックダウンが起こるのを経験して、自分を取り巻く包囲網がどんどん狭まっていくのを実感した。状況を見て早く決断、「最悪の最悪」に備えることは本当に大切だ。
今回、事態は深刻だ。非常事態宣言ではない、もっと想定外の何かが発生する可能性がある。日本では法律上ロックダウンはできないことになっているが、違う形で行動が制限される可能性はある。その時、僕は正しい判断ができるだろうか?今度は長男を危険に巻き込んだりしないだろうか。帰国してからはそのことばかりを考えている。
正常化バイアスについての記事はこちら